新卒で社会人デビューをした思い出深いお仕事体験!
CAがスチュワーデス、GSがグランドホステスと呼ばれていた時代です。
昭和53年、今は無き東亜国内航空(株)千歳空港所入社。当時は、高卒でも受け入れていたので、18才でした。札幌から千歳市の寮に移り住み、退職するまでの3年半を過ごしました。
入社して変わったこと
入社式は、小さな会議室で説明会を行った程度の簡素なものでした。私を含めて3名、内、男性1名。
学生気分が抜けていなかった私は、もうひとりの女性のしわくちゃのブラウスとスカートが気になっていました。
あとでわかったことですが、彼女はわけあり帰国子女。
家庭の事情でリクルートスーツは買えない…
積み上げた服の山から、引っ張り出して着て来たそうです。
しかし彼女は、恥じることなく堂々としていました。
今まで会ったことのないタイプであり、ずっと会いたかった人でした。
彼女は、スチュワーデスの試験を受けて不合格となりましたが、英語が堪能であることを認められてグランドホステスとして採用になりました。
これを「デス落ち」と言いました。
あの頃は、キャビンアテンダントとかグランドスッタフという言葉はありませんでした。
同期生は、励ましあい、慰めあう心強い存在です。
公私共に何でも話せる彼女は、私の世界観を大きく変えてくれました。
航空券は、国際線も含めて無償または割引なので、月に一度はひとり旅に行きました。
その経験もまた、自分の世界観を変えてくれたと思います。
すべてが手作り・手作業の仕事だった
さて仕事は、発券業務とチェックイン業務があり、全員どちらも出来るように教育を受けてから配属されます。
私は空港の一番端に位置する9番ゲートに配属、搭乗手続きをしておりました。
航空券は手書きでした。
搭乗券もナンバリングと日付のスタンプを押印です。
全てが手作り、手作業。札幌支店への報告はテレックス。
不便だとは思いませんでした。
失敗は毎日しました。
ご年配の肥った女性客に「何か月ですか?」と聞いてしまったり、128席の飛行機に129人チェックインして遅延させて始末書を提出。
また、千歳空港は夏は濃霧、冬は大雪で欠航便が出ます。
その欠航手続きの際、サービス業の癖が染みついているものですから、つい無意識に笑顔で対応。中年の男性客から「こんな時にニタニタするな」とお叱りを受けてしまいました。
整備士の方々が言った言葉が心に残っています。
「俺たちのミスは、人の命にかかわる」
プロ意識を学びました。
嫌だったこと・楽しかったこと・悲しかったこと
失敗はよくしましたが、辞めたいとは思いませんでした。
つくづく「嫌だ」と思ったのは一度だけ。
ある真冬の早番の朝。
早朝、玄関から送迎のタクシーまで、5メートルくらいの距離ですが、膝まで雪に埋もれて乗り込みました。そして空港近くまで来て、空港の外壁に設置された温度計に「マイナス32度」を見た時です。
楽しい思い出もたくさんあります。
出張の多い常連のお客様が、ご当地のお土産をくださり、旅の気分といっしょに味わいました。
また、つらく悲しかったこともあります。
一便の飛行機の予約から始まり、乗員乗客全員が家路につく、目的地に到着する…そこまでが一連の流れ、チーム力だと思います。
それが毎日無事に行われればいいのですが、そうもいかないことも…
目的地の悪天候のため、引き返すこともあります。
欠航になったためタクシーで向かいましたが、交通事故でタクシーの運転手の方が亡くなったこともあります。
東京から旭川行きの機内でお客様の牧師さんが急死して、千歳空港に緊急着陸したことも。
待合室のトイレで東京から来た会社員が病死していたこともありました。
幕が上がってから下りるまで、何が起こるかわかりません。
日々色々なことに向き合いながら仕事をしていました。
今でも空港や飛行機が大好き
明日に持ち越す残業はありませんでした。
夜は仲の良いメンバーが行きつけの居酒屋に集います。
最も心に残るチェックインは、入社後はじめての元旦。
1月1日函館行き61便搭乗客1名
締め切り時刻が迫ってくると、「もう来ないで」と思いました。
1が並んで縁起がいいからです。
JALやANAのような華々しさはなく、肩身の狭いエアラインでしたが、空港で働くって気持ちいいです。
離着陸の雄姿と轟音、夜の滑走路。
今でも空港や飛行機が大好きです。”